2009年06月30日

全世界で六四天安門事件に最も早く反応したのは

全世界で六四天安門事件に最も早く反応したのは、当時イギリスの植民地であるものの、その住人のほとんどが華僑で、中華人民共和国への「返還」を8年後に控えた香港である。このような非民主的な行為をする中国共産党に抗議デモが起こった。

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1989年6月5日には、香港のほぼすべての学校や企業、政府機関が公式に譴責・哀悼を行っており、たとえば学校では、小学校なども含んで校長や教師が泣きじゃくりながら声明を読み上げ、学生を率いて黙祷をしている。テレビやラジオ、新聞、雑誌などのメディアもこれを報道している。おそらく中国共産党に打撃を与えるためか、6月5日の早朝に、香港全土にある中国銀行グループの各銀行から、一日のうちに50億香港ドルが引き出されている。また後述のように香港市民に海外移住者が増え、香港企業も海外に本社を移転する動きも出た。

同日に香港の議会が、武力鎮圧に対する譴責を全員賛成で採択。その宣言は中華人民共和国への「返還」後の今でも撤回しておらず有効であり、香港と中国共産党の基本的な政治思想の差を示している。なお、事件を契機に、香港市民支援愛国民主運動連合会が結成され、今なお中華圏最大の民主化運動組織として活動しており、香港がイギリスより中華人民共和国へ返還、譲渡され、事件後20年近くが経った2007年6月4日にも同組織によって事件で犠牲になった学生らを悼む集会が香港島で開かれ[21]、5万5千人の参加者を集めた。

2009年06月12日

物理学(Physics)と化学(Chemistry)の境界は明確では

物理学(Physics)と化学(Chemistry)の境界は明確ではないが、化学変化による現象を研究するのが化学であり、それ以外の物質的現象を研究するのが物理学であるとも定義できるだろう。現代的自然科学の観点では、化学変化とは原子間の結合組み替えが起きる変化である。それに対して原子間の結合組み替えは起きない分子同士の位置変化のみによる変化が物理変化である。典型的な物理変化には、物体の変形、融解や蒸発などの状態変化がある。物理変化を引き起こす要因には力と熱があり、それぞれ力学と熱力学の対象である。多くの場合、化学変化は物理変化よりも大きなエネルギーを必要とする。化学変化は化学反応とも呼ばれる。

19世紀末に発見された放射能のような原子核反応、さらにその後発見された多数の素粒子相互の変換は化学変化よりも大きなエネルギーを必要とし、古典的な物理変化とは別の現象だが、これらの現象の研究は物理学として分類されている。

個別の物質の状態変化や熱力学の研究のような、物理学と化学との境界領域の学問分野を物理化学(Physical chemistry /Chemical physics)と呼ぶ。
バンジージャンプ
地球温暖化
体外離脱
白血病
花見
VDT症候群
元素周期表
油彩画
民話
翻訳
賃貸借
水上スキー
漢方薬
スキー
心療内科
妖怪
血液学
近畿地方
ウエストナイル熱
中国地方

化合 - 化学変化により複数の物質から、別の物質が生成する過程。
分解 - 化学変化によりある物質から、複数の物質が生成する過程。
酸化
還元
単に複数の物質を混合した場合は物理変化と見なされる。特に粒子同士の混合や懸濁液の調製、またはその逆の分離、は明確に物理変化と見なされる。だが分子レベルの混合の場合には化学変化を伴う場合もあり、化学変化とも物理変化とも断定しにくい場合もある。

次の例は典型的な物理変化である。古代以前から、これらの変化では材質が変化しないと認識されていたと考えられる。

物体の変形、破壊、切断、接合、組み立て
目に見える混合 固体粒子と液体、固体粒子同士
次の例は、物の性質の一部が変化するが現在では物理変化と認識されているものである。

三態変化、水と氷
液体の混合、溶解

2009年06月08日

無意識には、大きく以下の二つの意味または使用法がある

「意識がない」状態。(通常の心理学や精神医学での用法)
心のなかの「意識でない」領域。(ジークムント・フロイトが提唱した精神分析学や、カール・グスタフ・ユングが提唱した分析心理学での用法)
ユングはフリードリヒ・シェリング(対象化された自己意識を「無意識」(独: Unbewusstsein 意識でないもの、独: Bewusstlosigkeit 意識を欠いた状態)とした)が西洋における無意識の発見者であるとしている。無意識の領域を、簡単な表現で、「無意識(独: Unbewusste、英: the unconscious)」とも呼ぶ(ここでいう「無意識」は、「意識されていない心(英: unconscious mind)」などとは異なる概念である)。 ちなみに、AD4世紀頃現れた仏教の唯識思想、「唯識三十頌」では、前五識(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)と言う意識のほかに無意識とも解釈できる末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)という二つの深層意識層を想定した。
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無意識とは何かということは、その前提に、意識とは何かということの了解がなければならない。「意識」とは、人間一般において、「わたしが意識していると、意識しているとき、自明的に存在了解される何か」であるとされる(デカルトの「我思う、ゆえに我あり」。哲学の分野では長い間、意識と自我は同一視された)。

このような意識の把握は、主観心理学的な把握で、近代に成立した科学がその研究対象とするには、客観的な規定が曖昧すぎ、かつ定量化も、定性的把握も客観的には困難である。そのため、心の学である心理学においても、心や魂、あるいは意識は科学的に定義されないとして、刺激と反応で心理学を築こうとした行動主義心理学などが出現した。

しかし、科学的対象として客観的把握が困難であるとしても、「意識を意識する者には、意識の存在は自明である」という命題もまた真理である。[要出典]とされる。

「意識はない」または「意識があると思うのは錯覚である」という主張もあるが、このような考えは「考え」であり、「考え」は意識の働きである以上、意識は「ない」とか「錯覚」だとしても、そのように意識を捉えているということになる。

2009年04月24日

南極の地理

南極の地理(なんきょくのちり)が対象にするのは、南極周辺に限られるため氷の世界といってもよい。南極大陸は地球の南半球に位置し、南極点からやや離れたところを中心に非対称に広がり、南極圏の南側にほぼ収まる。世界の大洋en:World Oceanの南部に取り巻かれるが、出典によってはこれを南極海とも、太平洋・大西洋・インド洋の南部ともいう。面積は14,000,000km2を超え、大陸としては5番目の広さで、ヨーロッパの約1.3倍にあたる。

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南極の98%は南極氷床en:Antarctic ice sheetに覆われているが、これは世界最大の氷床かつ世界最大の淡水の貯蔵庫でもある。その厚さは平均1.6kmで、場所によっては大陸の基盤岩が氷の重みで海面下2.5kmまで沈降したところもある。氷河に由来する湖沼(例:ヴォストーク湖)も生じる。氷床の周辺には棚氷 en:Ice shelfと氷島en:ice rise(海面下の岩床に氷床が乗り海面上で島のようにみえる)がある。岩が露出したままの土地は大陸面積の2%にすぎない。

南極はロス海とウェッデル海にはさまれくびれた部分に近い山地で西南極と東南極 en:Eastern Antarcticaに分けられるが、この境界はグリニッジ子午線にほぼ沿っており、西半球と東半球に対応する。この考え方がヨーロッパ中心主義であるという批判も一部にあり、小南極・大南極と分類することもある。

西南極は西南極氷床en:West Antarctic Ice Sheetで覆われている。この氷床が将来融けてしまうのではないかという懸念が持ち上がっている。もしそうなれば海水面は短期間に数メートル上昇するだろうといわれる。

2009年04月07日

ギターポップ

ギターポップとは音楽ジャンルのひとつ。アコースティックギターもしくは歪みの少ないエレクトリックギターを中心に奏でられる洗練された音楽、という意味合いが強い。もともとは、英国のインディーズシーンから発生した、ポストパンクに位置する音楽ジャンルである。国内ではネオアコースティックと並記で「ネオアコ/ギターポップ」と総称されることが多い。

海外ではアズテックカメラ、オレンジジュースがこのジャンルの代表的存在。国内ではフリッパーズギター(1989 - 1991)が海外インディーズの音楽を辛辣に取り入れてこのジャンルの先駆けとなった。その意味では1990年代前半に流布した「渋谷系」にも通ずる。フリッパーズギターおよびそれにつづくブリッジ(1989 - 1995)、カジヒデキ(1996 -)が代表的存在。

ギターポップ・インディーズ・アーティスト
advantage Lucy
tetrapletrap
エイプリルズ
melting holidays
pitcher56
spaghetti vabune!
the Caraway

クシェット ショベル フットプ スターリン ツリー 一期 ワッフル シリコー フォル ミッド オパール パスカル ニシダ バシネット ネトル いなば ハント トルネード ローダー スパラキ おどろき プログム リベット グアヤ ケープ うわばみ 水鏡 いろは坂 ストア サイヒト マチア トレッカー タマシダ ぼちゃ 温順山椒 グロナス レディ オーバート SEOタイ ビュー ディス オフセン かゆばら ダビンチ ディマー カイアポ かもい ギタリ るすつ トケドー

2009年03月23日

5 - 8次車(中期車)

1980年度製造の6018Fからは一部設計が変更され、すべての窓が開閉可能となり、また、ドア間は従来より小振りの独立窓が3個配置された(先頭車と中間車で幅が異なる)。これは、省エネルギーを目的として熱交換換気装置の採用と引き換えに、冷房装置を1両につき2基搭載へと削減し、冷気を補助送風機から直接吹き出して体感温度を下げる方式としたためである。このタイプは、後述の6500系前期型も含めて、1993年以降能力を12500kcal/hにアップした冷房装置(2基搭載は変わらず。3100系・3700系と同形式だが、カバーの形状が異なり、阪急の車両に多く見られるタイプ[7])に換装されたものも多い。
レザー ホオズキ テレサイ スアレ 元亀 スリーブ アンス ファイフ テストパ 宇宙戦艦 ダーク アレン インロ デグー 赤いランプ 索ゴブレット トフル 男泣き ブロー キウイ ナーヤ ヒオウギ りょう カーブ ラワン ステッチ クイン きょっこう ブラッ きくもん まきえ 影の館 シリマリ クアッド 戦国合戦 ジャン サムネ ワーク シャイツ サイバ セルドレ ビュッフ 木漏れ日 シアター タムウ アココ オーニ ケンブ トークシ アネク

8次車までは、乗務員室を除いた客室部分における扉・窓配置を先頭車と中間車で同じとしたため、6500系以降の3扉車に比べて、先頭車はすべての扉が60cm後方に、また、中間車は両端の扉がそれぞれ60cmずつ車端寄りに位置する[8]。7次車が竣工した1982年以降、本形式は両数で7000系を抜き名鉄最多車両の座を保持している。このグループは、ファンの間では俗に中期車と呼ばれている。これらのグループの4両編成の大半は、現在では、瀬戸線に転属している。また、2両編成も6019編成を除き、ワンマン化改造の上、専ら三河線で使用されている。

なお、現在瀬戸線で使用されている6035Fのク6035は、1987年7月に平田橋駅(現・上小田井駅)で踏切事故により大破し、翌1988年春に部品を再用して車体新製のうえ復帰した車両である
1984年と翌1985年増備の9・10次車は、車体と車内設備が後述の6500系1・2次車と同様のものとなった。その先頭デザインから鉄仮面と呼ばれる。

なお、9次車と10次車では下部標識灯の構成が異なり、9次車は角型シールドビーム2灯(前照灯は計4灯)、10次車はLED1灯、となっている。

6000系の製造は1985年度で終了し、翌年度からは後述の6500系・6800系に製造が移行した。

2009年03月07日

デイル (ミサイル巡洋艦)

デイル(USS Dale, DLG/CG-19)は、アメリカ海軍のミサイル巡洋艦。リーヒ級ミサイル巡洋艦の4番艦。艦名はリチャード・デイル代将に因んで命名された。

艦歴
デイルはニュージャージー州カムデンで建造され、1963年11月に就役する。太平洋艦隊に配属されたデイルは続く7年間で、西太平洋へ5回配備された。1965年から1970年にかけての第7艦隊における活動では、ベトナム戦争における軍事作戦への参加が含まれた。デイルはトンキン湾で数回パイロットの救出を行った。
チング ハムナ タッセル オセア おおやまと クーポ シカゴ バリケード フィロ スプリン スモーカー プロバ サーチドア シュメール スティバル あっぱれ シャコ マリッジ 回転計 モノレール トップア ラテン ブレキ ティブ ピナフ システ そうよう モビール ラテアー チャレン センター フライド ビアフラ フットウ ガニメデ ブルー 大根ダイ トフロント びえい ネック ひみつの扉 ジーパン ジェリ ゼソウ コスモス しだれ梅 ひのみ レッジ スリラ トラウ

1970年11月、デイルはメイン州バスのバス鉄工所で近代化改装が行われた。この改装で海軍戦術データ・システム(Naval Tactical Data System, NTDS)およびその他の新装備が増設され、対空および対潜水艦戦能力が増強した。1971年12月に再就役すると、デイルは大西洋艦隊に配属された。第6艦隊の一艦としてデイルは、1973年10月のヨム・キプール戦争を含む緊張した期間を地中海東部で活動した。1975年7月の初めに CG-19 (ミサイル巡洋艦)に艦種変更され、翌1976年7月にはニューヨーク湾で行われた建国200周年記念の観閲式に参加した。1980年代中期の地中海配備では黒海を通過しルーマニアを訪問した。

デイルは定期的に装備の更新が行われ、1981年にはハープーン艦対地ミサイルおよびファランクスCIWSが装備された。また、フィラデルフィア海軍造船所でNTU (New Threat Upgrade)プログラムによる新型戦闘システムが導入された。1980年代の地中海配備ではしばしばインド洋およびペルシャ湾への派遣が行われ、1986年にはリビアとの紛争に参加した。

デイルはその艦歴の終わりを第6艦隊での定期的な巡航およびカリブ海、メキシコ湾での反麻薬パトロールに従事した。1991年には湾岸戦争後のイラクに対する制裁強化のため紅海へ派遣された。1992年、93年も国連のボスニア、ユーゴスラビアに対する同様の任務に参加した

デイルは1994年9月にフロリダ州メイポートのメイポート海軍基地で退役した。その後2000年1月に標的艦として海没処分となった。

2009年02月19日

冷戦後期 (1969-1989)

ジョンソンの後を受けたリチャード・ニクソン(共和党)は、泥沼化したベトナムからの撤退を模索し始めた。アメリカ軍はベトナムからの段階的な撤退をはじめ、ついに1973年、ベトナムからの完全撤退を完了した。ベトナムでの死者は5万人以上に上り、心身ともに傷ついた帰還兵の社会復帰と市民からの蔑視が社会問題化した。ニクソンはその他にも、中華人民共和国との関係改善を図ったり、アポロ計画やベトナム戦争によって悪化した財政を立て直すため、ドルと金の兌換を停止するなど、外交、経済面においていくつかの新機軸を打ち出したものの、ウォーターゲート事件により辞任に追い込まれ、大統領の権威の低下、政治不信が始まった。
ナイフ ダイア レフト レター ブライ マル ドポト フットランプ テグス パーツ なんがい トーム かにた ナツメ スモン ピンクソーダ シソーラス ジッポ リキュール ジープニー インター レコー ブート スパン コマツナギ トップバ ジーンチ 炎神 オピエー かさだか うばゆり キャンセル モスキ メトロ フォーゼ クラウト キール ばんかん アンダ シンパ せいこ 鶏頭人気 スコッ パレード オーメン トイ人 テゴル ティコア コムタン ヤハウェ

ニクソンの跡を継いだジェラルド・R・フォード(共和党)がニクソンに対して恩赦を与えたことや、さらにこれに続くジミー・カーター(民主党)の政権運営が弱腰と批判された事から、70年代を通じて政治不信は解消されなかった。特に、イラン革命の際に占拠された大使館を救出する作戦が失敗し、数十名の海兵隊員を死なせた事は、国民の米軍に対する信頼を裏切ることとなった。さらには、この大使館問題が解決される際、裏取引があったことが後に明るみに出て大問題となった(イラン・コントラ事件)。

国内ではベビーブーマー後の世代によるモラルの低下が著しく、また高所得者と低所得者の格差が急激に開いていった。ケネディによって市民権を獲得した黒人も、白人による差別感情は短期間で拭えるものではなかった。高級職業につくことは難しく、貧しい生活が続いた。これらの要因によって市街地で犯罪が増加し、主だった大都市の中心ではことごとく低所得者や黒人・プエルトリコ人の暮らすスラム街が形成され、治安は最悪となった。高所得の白人は郊外の住宅地に移転し、都市のドーナツ化現象が進んだ。こういった米国の負の特徴は「アメリカ病」と呼ばれ、アメリカの影響下にある先進諸国共通の問題となっていった。政府は問題を改善する為に福祉に力を入れざるを得なくなり、70年代に福祉国家へ生まれ変わった。

こうした中で保守派、福音主義(w:Evangelicalism)、キリスト教根本主義、キリスト教右派団体の期待を背負って登場したのがロナルド・レーガン(共和党)である。レーガンはソ連を「悪の帝国」と規定し、それに対抗するためにSDI(スターウォーズ構想)をはじめるなど、それまでの柔軟な外交政策を強硬的なものに変更した。おりしもソ連がアフガニスタンへの侵攻を開始したため、冷戦は新たな高まりを見せた。そのためこの時期を「新冷戦」と言う。このような強攻策はレーガン政権に入り込んだ新保守主義(ネオコン)の影響が強く働いている。ネオコンはリベラルな民主党で勢力を伸ばしていたが、70年代の民主党の支持率低下によって見切りをつけ、大挙して共和党へ流れ込んだ。

レーガンは、軍事ではグレナダ侵攻を成功させ、ベトナムとイランで傷ついた軍の威信も取り戻したが、すぐにレバノン内戦で大使館と海兵隊が襲われ、200名以上の死者を出したことから、地上作戦には消極的になった。リビアとは長く対立し、戦闘機同士の空中戦や、旅客機爆破の報復攻撃などを行った。また、イギリスや日本といった同盟国との関係を重視し、これらの国とは蜜月の関係となった。オイルショック以来、奇跡的な経済成長を遂げた日本・西ドイツを影響下に置きながら、政治・経済・軍事を西側先進国の合議によって運営しようとするサミットが開催されるようになったが、1985年のプラザ合意でその影響力が発揮された。内政ではローマ・カトリックとキリスト教右派団体の主張にしたがって妊娠中絶を規制するなどした。この時代は60年代末までのニューディール絶頂期から保守的な時代へと大きく転換した時代である。

産業面では、半導体を用いるコンピュータを中心とした先端工業が発達し、シリコンバレーと呼ばれる半導体工業地帯が登場し、ハイテク草創期において技術がほぼ独占状態となった。一方、70年代から80年代にかけ、経済成長によって大国となった日本や西ドイツが自動車、家電、オーディオ機器などを次々に米国で展開した。特に日本製の製品は大衆的で高品質低価格として非常に人気となり、日本製自動車が全米の保有台数の4分の1から3分の1に迫るまでになった。また、米国の独占が続いたハイテク産業においても、80年代後半には日本企業が急成長してシェアを奪い、米国企業の危機感を煽った。このため、商務省と財界は日本に対して貿易不均衡の是正として様々な圧力をかけ、牛肉や柑橘類の自由貿易を認めさせたが、日本側も様々な手段で抵抗した為、すさまじい貿易摩擦へと展開した。米国内では、国民の不満を日本へ向けるための煽動報道が繰り返し行われ、90年代前半にかけ、「ジャパンバッシング」(日本叩き)と呼ばれる反日運動が国内を覆った。

レーガンの跡を継いだジョージ・H・W・ブッシュ(共和党)は積極的な強硬政策を採り、パナマ侵攻と湾岸戦争を成功させ、軍の威信と信頼を取り戻した。また、上記のような反日感情を反映し、日本に対しては様々な圧力外交を行った。この露骨な圧力政策は、日本のバブル経済が崩壊する90年代半ばまで続いた。さらにブッシュの時代、ロス暴動をきっかけとして、国内に根強く残る人種差別感情や人種間対立が浮き彫りとなった。

1989年11月9日、冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊し、それを受けて12月3日のミハイル・ゴルバチョフとのマルタ会談では「冷戦の終結」が宣言された。こうしてアメリカのみならず、世界は新しい時代の幕開けを迎える事になる。

冷戦後 (1989-2000)
冷戦の終了後、まず最初に直面した問題は中東問題である。1991年イラクがクウェートに侵攻したことに対してアメリカ軍を中心とした多国籍軍が編成され、クウェートをイラクから解放することに成功した。これが湾岸戦争である。湾岸戦争はその現在まで続く中東問題の端緒ともなった。また、ソ連の崩壊は、自由主義陣営の中心であるアメリカの勝利を意味していたが、強硬姿勢を維持しつづけるために軍事予算は膨張し、アメリカの経済は双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)と呼ばれる状態に苦しめられていた。

ブッシュの後に登場したビル・クリントン(民主党)はこうした経済的不況を解消することに努力し、クリントンが大統領職を去るときにはこの状況は完全に解消され、アメリカはこれまでに無い好景気を謳歌することができた。これには副大統領のアルバート・ゴアが主張する情報スーパーハイウェイ構想など、IT産業を積極的に後押しした事もその助けとなっている。アメリカは1980年代から軍事目的として電話回線を使用した情報網の整備を行っており、1990年代にパソコン通信やインターネットが民間によって急速に広がる下地となった。マイクロソフトやアップルコンピュータといった米国企業が急成長し、ハイテク技術の独占が進んだ。

クリントン時代にはファーストレディであるヒラリー・クリントンの影響から女性の権利を大幅に認めるなど、ブッシュまでの保守的な状況から、ある程度リベラルな方向へ巻き戻す試みがなされた。対外的には、ソマリアの国連平和維持活動が地元民兵に襲撃されて米兵に多数の犠牲を出した事件によって、海外派兵を控える意見が大きくなり、またコソボ紛争によるユーゴスラビアやイラクへの空爆、アフガニスタン・スーダン攻撃は地上軍を伴わない比較的小規模な戦闘で、大きな対外軍事行動による出費がなかったこともクリントン政権には幸いした。

好景気によって繁栄を謳歌したクリントンの時代は、世界が米ソの二極状態から、米国を中心とした一極世界へ向かうものと想像されていた。

現代 (2001-)
次に政権に就いたのは、ネオコンサバティブや、キリスト教右派、ローマ・カトリック、キリスト教根本主義に支持されていたジョージ・W・ブッシュ(先のブッシュ大統領の息子)であった。ブッシュの支持率は当初から低かったが、アメリカ市民は20世紀から21世紀の世紀転換期を、平和と好景気とリベラルの中で謳歌していた。そんなアメリカの目を覚ます出来事が起こる。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件(nine eleventh、September eleventh)である。ブッシュ政権はこの事件を期に支持率を拡大、アフガニスタン侵攻、イラク戦争と言った対テロ戦争をはじめ、大きく保守化の方向へ舵を切った。

こうしたアメリカの強硬な外交政策はユニラテラリズムと呼ばれ、冷戦後に欧州で発言力を増したドイツやフランスなどから批判を受けている。一方、対テロ戦争を契機にイギリスや日本といった国は米国への追従を強め、戦争へ協力するとともに、米国との蜜月関係を築いた。また、ロシアや中国もテロ対策に賛同したが、イラク戦争によって対立へと変わった。2004年に再選されたブッシュは、アフガニスタンやイラクのほかにもイラン、北朝鮮を「テロ支援国家」「悪の枢軸」と規定しているが、イラク戦争が泥沼化し、国内のハリケーン災害が後手に回ったこともあり、強行外交の見直しと軍の再編が行われている。

クリントンによって解決された双子の赤字問題は、ブッシュの強硬な外交政策による軍事費増加によって、まず財政赤字が急速に増加した。また、中国の急成長や、イラク戦争後の統治失敗に伴う中東の不安定化による原油価格の急騰によって貿易赤字も増大している。景気はクリントン時代のITバブルが崩壊して一時的に鈍化したが、続いて住宅人気による宅地造成・建設ラッシュが好景気を招いた。しかし、今後はこの住宅バブルの崩壊が危惧されている。かつて世界一を誇った工業力も、企業が工場の海外移転を進め、また、投資事業や金融に力を入れた結果、産業の空洞化が起こっている。イラク駐留による軍事力の疲弊も重なり、米国の国際力は長期的に衰退する可能性がある一方、産業移転と投資によって中国やインドは工業的に急成長し、原油高によってロシアの経済力も回復した。ドイツ・フランスの周辺国への影響も増しており、冷戦に続く米国の一極構造は崩れつつあるという見方もある。

国家を形成する人種構成も20世紀末から大きく変化した。中南米からのスペイン語系移民(ヒスパニック)が土着し、それまでの白人・黒人のどちらにも属さない新たなコミュニティを形成している。貧しいラテンアメリカから豊かに見えるアメリカ合衆国への人々の流れは増加の一途にあり、黒人人口を上回る地域も発生した。この事象はメキシコと国境を接する各州共通の問題であるが、ヒスパニックが低賃金の新たな労働資源となっていることや、ラテンアメリカ系の商品売買による新たな経済活動の機会となっているため、単純な同化政策を採りづらくなっている。しかし、同化政策の遅れは言語分断を招くなど大きな問題となっている。どちらにしてもヒスパニックは今後のアメリカを左右する重要な勢力になると思われる。米国政府の推測では、2006年10月に人口が3億人を超えたが、これはヒスパニックの流入と、アメリカの合計特殊出生率が安定していることなどによる自然増が要因と考えられている。

2009年02月03日

阿倍氏(あべし、後に安倍氏)

阿倍氏(あべし、後に安倍氏)は古代日本の豪族に由来する貴族の氏の一つ。孝元天皇の皇子大彦命を祖先とする皇別氏族である。飛鳥時代から奈良時代に大臣級の高官を輩出する。平安時代以後は「安倍氏」と称して安倍晴明以後は陰陽師の家系として知られるようになった。
こかぶ オスト ギュラー バスドラ ツルム 愛秋豊柿 ダービー ニバル ブラジ カシューナ パトロン ミステ シール ロング サーチツナ サイトフエ ステイヤ トップギア オーベ ランチャ ガイア ダンベル プロボ ソフォク パンプス アパッチ フェリ 吉兆 チャーハン ナイトメアー ジンゼナ テーププ うるあわ サロペ タンゴ 風の神 ファレノ イメージ ポンポン キャタピ パッション シスアド チャイム アビレ スキトル チェンバ マントラ ターゲティ 銀色の舟 月のウサギ

阿倍氏(古代?奈良時代)
景行天皇の妃の一人である高田媛の父が阿部木事であるとされ、また継体天皇の妃に阿倍波延比売がいたいわれているが、歴史上はっきりとした段階で活躍するのは宣化天皇の大夫であった阿倍(臣)大麻呂(火麻呂とする説もある)が初見である。大麻呂は大伴金村・物部麁鹿火・蘇我稲目に次ぐ地位の重臣であったと言われている。推古天皇の時代には蘇我馬子の側近として阿倍(臣)麻呂が登場している。

大化の改新の新政権で左大臣となったのは、阿倍倉梯麻呂(内麻呂ともいう)であった。阿倍氏には『日本書紀』などでも外国への使者などに派遣される人物が多く、倉梯麻呂は家柄のみならずそれなりの見識を買われて新政権に参加した可能性が高い。また、倉梯麻呂の娘・小足媛は孝徳天皇の妃となって有間皇子を生んだとされており、またもう一人の娘・橘媛は天智天皇の妃になるなど、当時の阿倍氏の勢力が窺える。

その後、阿倍氏は一族が分立して「布施臣」・「引田臣」(ともに後に朝臣の姓を受ける)などに分裂していった。だが、引田臣を率いる阿倍比羅夫が斉明天皇に仕えて将軍として活躍し、布施臣を率いる倉梯麻呂の息子・布施御主人(みうし、後の「阿倍御主人」)(635-703)は大宝律令下で最初の右大臣に任命された。その後、布施御主人は「阿倍朝臣」の姓をあたえられ、続いて引田朝臣でも比羅夫の息子達に対して同様の措置が取られた。遣唐使で留学生として唐に渡った阿倍仲麻呂は比羅夫の孫、船守の息子であると言われている。以後は主として御主人と比羅夫の末裔が「阿倍氏」と称することになった。だが、中納言で死去した御主人の子・阿倍広庭(659-732)が死ぬと、藤原氏などの新興氏族に押されて低迷する。だが、藤原武智麻呂夫人(豊成・仲麻呂兄弟の生母)や藤原良継夫人安倍古美奈などの有力者の夫人を出している。

安倍氏(平安時代)
「阿倍氏」がいつ頃から「安倍氏」と改めたかには諸説あるが、平安時代初期の延暦?弘仁年間説が有力であると言われている。この時期には安倍兄雄(?-808、御主人の玄孫、平城天皇時代の参議)、安倍安仁(793-859、引田臣系傍流、仁明天皇時代の大納言・右近衛大将)という二人の有力高官を出している。だが、その後の活躍はやはり兄雄の6代目の子孫とされている安倍晴明の活躍する平安中期にまで降ってしまう。晴明以後、安倍氏が賀茂氏とともに天文と陰陽道を司ったというのは著名な話であるが、官位的には晴明も息子吉平(954-1027)も最終的には従四位上であって、先祖である兄雄と比べれば格下であるのは明白である。その後、長男時親は天文密奏宣旨授与者、次男章親は天文博士、3男奉親は天文権博士と天文道に関する地位を独占した。以後、代々天文博士・陰陽頭に任じられたが、その一方でその地位や学説を巡る一族間の対立も激化していき、時親の子有行を祖とし孫の泰親に引き継がれた家系、同じく時親の子国随を祖とし孫の晴道に引き継がれた家系、時親の弟奉親を祖とし曾孫の広賢引き継がれた家系の3系統に分立して激しく争った。

安倍氏(平安時代末期?鎌倉時代)
世の中が不安定であればあるほど、朝廷から陰陽師への期待が高まるものなのか、安倍氏から名高い陰陽師が登場するのは「乱世」というべき時代である。源平の戦い当時の陰陽頭安倍泰親(吉平の玄孫にあたる、1110-83)は正四位上、息子の季弘(1136-99)は正四位下にまで昇進している。だが、晴道や広賢及びその子弟も自己の家系の説をもって泰親親子と激しく対立を続け、その後もその3系統の中からも分裂する動きが続いた。

安倍氏(南北朝時代)
南北朝時代に登場した安倍有世(晴明から14代目、泰親から8代目)はついに公卿である従二位にまで達した。安倍氏の一族としては500年以上絶えてなかった事であり、その職掌柄から時には恐れ忌み嫌われる立場にあった陰陽師が公卿になったことは当時としては衝撃的な事件であった。
泰親には九条兼実、有世には足利義満という政治的な後援者がいたからこそここまでの昇進に至ったという意見もある。だが、泰親は平氏の衰亡や以仁王の乱を予言し、有世は明徳の乱・応永の乱を予言したとも言われており、占星術や陰陽道においても特筆した才能があったとする記録が残されている。兼実や義満も彼らのそうした高い能力を評価したからこそ、その昇進を援けたのである。

土御門家(室町時代)
一般的には(専門書の中にも)「土御門家」の祖を安倍有世に求めて有世を「土御門有世」と呼称される事が多い。だが、有世が“土御門”を名乗ったとする記録は当の土御門家にも存在せず、確実に「土御門」を名乗ったと言えるのは、その曾孫にあたる安倍(土御門)有宣(室町時代中期-後期)以後であると考えられている。

当初は「有世一代」限りの公卿という条件であったものの、実際には有世の晩年に足利義満が有世の長年の功労に報いて嫡男の安倍有盛を公卿に昇進させ、その後も有季・有宣とその嫡流は公卿に昇った。かくして有世の家系は堂上家(半家)の資格を得る事になり、やがて有世以来代々の当主の屋敷が土御門の地にあったことから、「土御門」を名乗る事となり、他の安倍氏とは一線を画して陰陽師としての公的な職務は全て安倍氏(土御門家)と賀茂氏(幸徳井家)が取り仕切る事となった。

土御門家(戦国時代?織豊時代)
だが、その初代である有宣は応仁の乱以来の混乱を避け、若狭国(おおい町)の荘園に下向した。子の有春も若狭で一生をすごし、以後若狭定住が常態となる。孫の土御門有脩(1527-77)は1565年に賀茂氏が独占していた暦博士を初めて兼任した。その息子土御門久脩(1560-1625)は若狭から戦乱の収束した都に一時戻ったが、豊臣秀次の自害に連座して失脚した。

土御門家(江戸時代?明治時代)
しかし新しく幕府をひらいた徳川家康に重用されたため、朝廷にも復帰が許され、梅小路に大邸宅を与えられた。その息子・土御門泰重(1586-1661)は天文博士として衰退した家名の再興に尽力し公卿として従二位にまで昇進した。また弟の泰吉を独立させて倉橋家を創設した。更に陰陽道の総帥たる陰陽頭の座を巡る安倍氏(土御門家)と賀茂氏(幸徳井家)の間での長年の確執は、賀茂氏出身の幸徳井友傳が天和2年(1682年)に35歳で夭折したことで、土御門泰福(1655-1717)が陰陽頭に任じられて、以降陰陽頭は安倍氏が独占することで決着することとなる。泰福は天和3年(1683年)、全国の陰陽師の支配・任免を土御門家の独占とすることに成功して後に土御門神道を創設して土御門家は全盛期を迎える。だが、江戸幕府天文方が主導した改暦(貞享暦)に成功すると、改暦の権限を巡って幕府(天文方)と朝廷(土御門家)の間で対立が生じるようになった。泰福の末子土御門泰邦(1711-84)は、在野の暦算家の協力を得て宝暦暦を制定する事に成功し、改暦の権限を再び土御門家に取り戻す事に成功した。
明治維新の混乱に乗じて時の当主土御門晴雄(1827-69)は旧幕府の天文方を接収して、天文観測や地図測量の権限を手中に収めた。これによって、西洋の近代的な天文学が事実上排除されると言う「逆転現象」が生じた。更に晴雄は西洋の太陽暦(グレゴリオ暦)の導入の動きを察して、太陽暦を排して従来の太陰太陽暦の維持を図るために明治改暦を提唱した。だが、晴雄自身の急逝に伴って計画は挫折する事になる。
ここに至って明治新政府も陰陽寮が反「近代科学」勢力の中心になる事を恐れて陰陽寮の解体に乗り出した。晴雄の嫡男土御門晴栄が幼少である事を幸いに1870年に陰陽寮の廃止と陰陽道の公的分野からの排除が行われて、続いて天文や暦算分野も海軍や大学、天文台に移管される事となった。
華族制度導入後、晴栄は子爵に叙せられている。1915年、土御門家が保有していた天文記録や当主の日記などが宮内省に献上されて、その多くが現在でも宮内庁書陵部に保管されている。

主な人物
阿倍御主人 (635 ? 703)
阿倍倉梯麻呂 ( ? 649)
阿倍比羅夫 ( ? )
阿倍船守 ( ? )
阿倍宿奈麻呂 ( ? 720)
阿倍広庭 ( ? 732)
阿倍沙彌麻呂 ( ? 758)
阿倍島麻呂 ( ? 761)
阿倍毛人 ( ? 772)
阿倍仲麻呂 (698 ? 770)
阿倍兄雄 ( ? 808)
安倍寛麻呂 (757 ? 820)
安倍安仁 (795 ? 859)
安倍晴明 (921 ? 1005)
安倍吉平 (954 ? 1026)
安倍吉昌 (955 ? 1031)
安倍成親 ( ? )
安倍泰親 (1110 ? 1183)
安倍季弘 (1136 ? 1199)
安倍泰吉 ( ? )
安倍有世 (1327 ? 1405)
安倍有盛 ( ? )
安倍守経 ( ? 1422)
安倍泰家 ( ? 1417)
安倍有盛 ( ? 1433)
安倍有重 ( ? )
安倍有富 ( ? )
土御門有季 ( ? 1465)
土御門泰清 ( ? 1511)
土御門有宣 (1433 ? 1514)
土御門有春 (1501 ? 1569)
土御門有脩 (1527 ? 1577)
土御門久脩 (1560 ? 1625)
土御門泰重 (1586 ? 1661)
土御門泰広 (1611 ? 1652)
土御門隆俊 (1626 ? 1687)
土御門泰福 (1655 ? 1717)
土御門泰誠 (1677 ? 1691)
土御門泰連 (1685 ? 1752)
土御門泰邦 (1711 ? 1784)
土御門泰兄 (1728 ? 1754)
土御門有邦 (1753 ? 1759)
土御門泰信 (1752 ー )
土御門泰栄 (1758 ? 1806)
土御門泰胤 (1782 ? )
土御門晴親 (1787 ? 1842)
土御門晴雄 (1827 ? 1869)

2009年01月20日

写真発明以前

写真が発明される19世紀以前にも、光を平面に投影する試みは行われていた。画家達は、16世紀頃には立体の風景を平面に投影するためにカメラ・オブスクラやカメラ・ルシダと呼ばれる装置を用い、その中に投影された像に似せて実景に似た絵を描いた。これらの初期の「カメラ」は像を定着(写真用語の「定着」ではない)することはできず、単に壁に開いた開口部を通して暗くした部屋の壁に像を投影するだけのもの、つまり部屋を「大きなピンホールカメラにしたもの」だった。カメラ・オブスクラ とは暗い部屋といった意味である。18世紀には、銀とチョークの混合物に光を当てると黒くなるというヨハン・ハインリッヒ・シュルツによる1724年の発見をはじめとして塩化銀やハロゲン化銀など銀化合物の一部は感光すると色が変わることが知られており遊戯などに用いられていたものの、これとカメラ・オブスクラなどを組み合わせる発想はなかった。
タンカー ドル箱 フィクサー チョンチ 微熱 フッター バーム トレー オペラ ロジス トーナメ ヤーコン ファーマ ジェノサ オフコン プロパ ビジタ お祭り ゴング ギタリスト ゲスト ハンド 北風のキ ピラニア リボン パイル ハイブリ チュウ ハット ワイツ ムラサ 雨のタン ストーン スターチ テーブ シンシア セピア バーナー しもにた イソウ サーチスギ パラメ シルフィ リッツ そうま タイム オスロニク キーポイ シャイニ ばるべーら

写真発明以降
19世紀初めに、カメラ・オブスクラの映像と感光剤とを組み合わせ映像を定着させる写真の技術は、ほぼ同時に多数発明された。このとき美術は新古典主義とロマン主義の並存する時期であった。また、大勢誕生した中産階級によって肖像画の需要が高まっていた。そして、石版画の技術が新聞図版や複製画などに活用され、広まりつつあった。現存する世界最古の写真は、1825年にニセフォール・ニエプスが撮影したa man leading a horse(馬引く男)である。

現代の写真処理は1840年から最初の20年の一連の改良を基底とする。ニセフォール・ニエプスによる最初の写真の後、1839年にはダゲレオタイプが発表され、直後にカロタイプも発表された。写真の普及は肖像写真の流行、1850年代の湿式コロジオン法の発明、1871年のゼラチン乾板の発明へと続いた。1884年、ニューヨークのジョージ・イーストマンは紙に乾燥ゲルを塗布する方式を開発し、もはや写真家は乾板の箱や有毒な化学物質を持ち歩かなくて済むようになった。1888年7月、イーストマンの設立したコダックカメラが「あなたはボタンを押すだけ、後はコダックが全部やります」との触れ込みで市場に参入した。こうして現像サービス企業が登場し、誰でも写真撮影が可能な時代となり、複雑な画像処理の道具を自前で持つことが必要ではなくなった。1901年にはコダック・ブラウニーの登場により写真は市場に乗った。1925年の35mmライカカメラの登場で一般性、可搬性(カメラの持ち運び易さ)、機動性、フィルム交換のし易さが高まってスナップ写真が広まるなどした。20世紀以降、カラーフィルム(多色フィルム)やオートフォーカス(自動合焦;ただし必ず自動で合焦するわけではない)やオートエキスポーズ(自動露出)が広まった。画像の電子記録も広まっている。

現在ではデジタルカメラの液晶画面によるインスタントプレビューが可能であり、高画質機種の解像度は高品質の35mmフィルムのそれを越えているとも言われるようになった。コンパクトデジタルカメラの価格は大幅に低下し、写真を撮ることはより容易になった。しかし、専らME・MFの[3]カメラと白黒フィルムを使う撮影者にとって、1925年に35mmライカカメラが登場して以来、変わった点はほとんどないとも言える。2004年1月、コダックは「2004年末をもって35mmリローダブルカメラの生産を打ち切る」と発表した。フィルム写真の終焉と受け止められたが、当時のコダックはフィルムカメラ市場での役割は小さなものであった。2006年1月、ニコンも同様にハイエンド機F6とローエンド機FM10を除いたフィルムカメラの生産を打ち切ると発表した。同年5月25日、キヤノン(通称「キャノン」)は新しいフィルムSLRカメラの開発を中止すると発表したものの、販売するフィルムSLRが1機種になったのは2008年になってからであり、2004年1月のニコンの発表以降も4機種ものフィルムSLRを供給していた。35mmカメラおよびAPSコンパクトカメラの値段は下落してきた。恐らく、直接的なデジタルカメラとの競争と中古フィルムカメラ市場拡大が原因である。